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白木正四郎の福萬醤油

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醤油の文化を語るブログ

福萬醤油の歴史(戦国時代から昭和まで)

三つ盛木瓜(日下部氏流)白木家の家紋は朝倉の分家である為に中心の花弁がない家紋である。

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 朝倉氏は開化天皇または孝徳天皇の後裔といわれている。天智天皇により19歳の若さで謀反の疑いをかけられて、謀殺された有馬皇子は孝徳天皇の嫡子。朝倉氏は有馬皇子の妹の子孫だと言われている。朝倉氏ははじめ日下部を姓としたが、平安時代末期に但馬国朝倉に居住し、はじめて朝倉氏を称したという。 
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下って南北朝時代に広景が、足利方の斯波高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍している。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていった。 その後孝景が現われ、斯波氏の内紛に乗じて、越前守護となり、一乗谷に城を構えて戦国大名化に成功した。孝景は応仁の乱では西軍に加わり、文明十三年、斯波氏に代わって越前守護となった。一乗谷城にはそれから氏景・貞景・孝景・義景の五代が住み、越前に戦国大名領国制を展開することになる。初代の孝景が有名な「朝倉敏景十七ヶ条」の制定者で、朝倉氏中興の祖というか、戦国朝倉氏の基礎を築いた人物である。 初代孝景の子教景は宗滴と号し、五代義景にいたるまで後見として活躍し、加賀・能登・越中の一向一揆と戦うなど、朝倉五代を身をもって生き抜いた人物である。七十九歳という高齢でなおかつ合戦に参加したという話は有名で、朝倉氏もこの宗滴が弘治元年に死んでからは、歯止めを失った義景の、奢りをきわめた生活が始まり、衰えを見せるようになる。宗滴教景が話したことを家臣が書き留めた「朝倉宗滴話記」は、家訓としても名高い。 義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名だ。 元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めた。ところが信長の妹を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻したのである。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることになった。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の合戦が行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしたが敗北。 天正元年、信長は古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害した。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまった。
 
朝倉義景の弟であった先祖朝倉刑部太夫景遠は越前国、細呂木藩主3万5千石を治めていた。織田信長との姉川の戦いに敗れ、福井県白木谷に逃れた。日本海に面する山に囲まれた秘境の地、白木谷に朝倉刑部太夫景遠は、隠れ住む。白木谷の白木という名前は新羅の国からのこの地に隠れ住む朝鮮半島からの逃亡者が隠れ住む村であった。白木は新羅の呼び方が変化したと言われている。刑部太夫景遠の子 白木忠右衛門景定は、姓を朝倉から白木と改名。執拗に迫る織田信長の追っ手を避けるために、白木谷を出て、備前の国(岡山県)の福岡の黒田官兵衛に仕える。家老栗山備後守利安の妻は忠右衛門景定の妹。忠右衛門景定は栗山備後守利保の義兄となる。

黒田官兵衛孝高像。
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。栗山備後守利安の妻は忠右衛門景定の妹。その子白木甚衛門は黒田二十四騎の筆頭家老栗山備後守利安とは義理の息子(次女を嫁としてもらう)、で家来300石で仕える。栗山善助(備後守利安)は、主家黒田家とは主従の枠を超えた親密な関係があった。 栗山善助は、黒田官兵衛孝高(後に如水と号する)に仕え、母里太兵衛や後藤又兵衛らと共に黒田24騎・黒田八虎と言われた。戦場であげた首級57と、家臣でもずば抜けた戦功を挙げている。また善介は、主君官兵衛を半死半生の世界から救いだした功績もあった。秀吉の与力として参謀を勤めていた官兵衛は、信長に反旗を翻した同じ切支丹武将の荒木村重のいる有岡城に説得に行くのである。しかし、逆に土牢に1年もの間幽閉されてしまう。 長い間、陽も差し込まない地下牢に入れられた官兵衛は、すっかり身体も干からび歩行困難の姿になっていた。この官兵衛を有岡城の落城の中で救い出したのが、栗山善助なのである。 一方、官兵衛が消息不明になり、信長は官兵衛も裏切ったと激怒した。そして秀吉の長浜城にいる官兵衛の嫡男・松寿丸を斬る様に、竹中半兵衛に命じた。しかし官兵衛が裏切ったという確証を得ない半兵衛は、自領に長政をかくまって、信長には虚偽の報告をした。半兵衛はこの翌年、命令違反を問われることなく、病没している。長政の戦国期を切り抜けた濃厚な価値観の中では、息子忠之では家の存続にいかにも危なっかしい。長政も自分との後継者として忠之の器量を危ぶみ、幾度となく廃嫡を考えた。商人にさせようともした。 この長政の廃嫡の動きに対し、忠之の守り役であった栗山大膳が防波堤となって、ことごとく守ったのである。先祖の白木甚衛門は義理の父であり、主君である栗山備後守利安が没した当日、志波の円清寺にて割腹にて殉死。時は寛永9年(1631年)。
 長政も最後には、大膳ら重臣が藩の運営を間違いなく補佐してくれるだろうと後事を託したのであったが、一抹の不安からか、長興に秋月5万石を、高政には東蓮寺(直方)4万石を与えて分家独立させ、本家に何かあっても黒田家の家名が残るようにもしている。
 長政から重用された栗山大膳は、武芸全般に秀でいたが、書道に詩歌に長じ、また幕府の学頭・林羅山の薫陶も受けた当時一流の教養人でもあった。黒田藩52万石の筆頭家老であり名士として、幕閣や諸藩の有力者との交流も多かったであろう。
 長政が薨去した後も忠之の奇行が納まらず、家臣をむやみやたら打ち叩いたり、幕府に禁じられた大船を建造したりと、大膳の諫言は繰り返された。大船建造の件は、大膳が幕府に申し開きをして解決させている。その後、家老栗山大膳の忠之の奇行を諌めるために起こした黒田騒動、寛永10年(1632年)にて、大膳の甥っ子であり、家来でもあった甚右衛門の息子白木孫衛門は武士から牢人となり、粕屋郡にて病死した。一歳で孤児となったその子白木太兵衛は宗像郡の百姓の夫婦に養子にもらわれて、成長。福岡の萬町にて、親戚の薬院の楠屋(松村家)の力を借りて、酒屋を創業。楠屋白木玄流と名乗る。事業に成功し財をなした玄流は宗像の義理の養父養母に感謝し、臨終の遺言で太宰府戒壇院の梵鐘を寄付する。その子白木太次兵衛(寿山)は、柏屋を創業。代々黒田家御用達の酒蔵元として酒の醸造業を150年間営む。文政四年(1821年)に福萬醤油初代白木太次郎が味噌、醤油の製造を萬町にて開業。以後200年間営む。



戦国時代から昭和時代の詳細な系図は以下の通り。

一代  朝倉刑部太夫景遠
越前国、細呂木藩主3万5千石。朝倉金吾義景の弟。兄弟で浅井氏
と共に、織田信長と姉川で戦う。世に言う姉川の戦いで敗戦。兄は討死。福井県の日本海に面する山に囲まれた秘境の地、白木谷に弟は落ち延びて、隠れ住む。白木谷の白木という名前は新羅の国からのこの地に隠れ住む朝鮮半島からの逃亡者が隠れ住む村であった。白木は新羅の呼び方が変化したと言われている。位牌無し。

二代  白木忠右衛門景定
織田信長の追っ手を避けるために、姓を朝倉から白木と改名。白木谷を出て、備前の国(岡山県)の福岡の黒田官兵衛に仕える。栗山備後守利安の妻は忠右衛門景定の妹。忠右衛門景定は栗山備後守利保の義兄。位牌無し。

三代  白木甚右衛門
(?~1631年、寛永9年殉死)
叔父である黒田家老、栗山備後守利安(一万五千石、1550~1631、82歳、寛永9年死去)の次女を妻に娶る。甚右衛門は栗山備後守利安の義理の息子。つまり、黒田騒動の首謀者である家老栗山大膳と義兄弟。家臣として300石をいただく。九州での黒田官兵衛の九州攻略戦で、各藩との戦いに栗山備後守と共に参戦。備後守の死去にともない即日殉死。備後守我主君如水の為に建立した杷木町志波の円清寺に備後の墓を守るように墓がある。位牌は円清寺に有り。円清寺は筑前藩主黒田長政の父孝高公が、慶長9年なくなったとき、志波以東の宰領をまかされていた黒田藩家老栗山備後利安が、主君孝高公菩提のために建立したもので、山号寺号もその法名「龍光院如水円清居士」に因んだものである。したがって黒田孝高公、長政公の位牌や梵鐘、画像等黒田家ゆかりの品々が保存されている。
志波円清寺全景
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四代  白木孫右衛門
(?~1646年、正保3年没)
叔父である栗山大膳に仕える。黒田騒動にて、大膳が津軽藩に配流。武士の身分を剥奪され牢人となり、粕屋郡にて病死。位牌無し。

五代  白木太兵衛
(1645年~1700年、55歳、元禄13年没 戒名は本達玄流居士。)
1歳にて、孤児となり、母とも生き別れ、宗像の子宝に恵まれない慈愛溢れる百姓夫婦の家に養子としてもらわれ、大事に育てられる。白木家再興を養父から教えられ、成長して薬院の楠屋の松村から支援を受けて福岡萬町にて酒醸造業 楠屋を始める。楠屋太兵衛と名乗る。成功して、臨終の遺言にて、日本三大戒壇院のひとつである太宰府観世音寺戒壇院の梵鐘を寄進する。また、観世音寺の江戸の再建にも多額の寄進をおこなう。
梵鐘の櫓と梵鐘
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戒壇院の梵鐘の前には、白木玄流氏よりの寄進と記す立札がある。
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玄流の2人の娘は薬院の楠屋(松村家)に嫁ぐ。位牌あり。
戒壇院全景
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六代  初代白木太治兵衛
(1684年~1761年、77歳、宝歴10年没、戒名は實心寿山。写真は寿山の自画像。
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苦労して成功した父、玄流の功績を称え、尊敬し、白木家に関する歴史をまとめる作業を行う。
酒醸造業 柏屋の創設者。檀家である安国寺に父玄流の冥福を祈る為に山林5000坪を2度も寄進。三代に渡る黄金期を迎える。

七代  二代目白木太治兵衛
(1723年~1769年、46歳、明和5年没、戒名は桃厳寿仙)

八代  三代目太治兵衛
(1747年~1808年、61歳、文化5年没、戒名は實厳寿哲)
弟は、白木太左衛門は27歳にて没。戒名一関覚居士)位牌あり。

九代  白木太次郎
(1777年~1814年、38歳、文化11年没、戒名は實参良縁居士)
實参良縁居士の肖像画
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義父の太治兵衛に男子無く、松村家から白木家に養子として迎えられた。

十代  白木太治郎
(1795年~1862年、67歳、文久2年没、戒名は萬實一円居士)
一円居士の肖像画、福萬醤油の初代
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良縁居士の娘と松村治右衛門の3男が婿養子として縁組。
白木太治郎は、文政4年(1821年)福萬醤油を開業し、福萬醤油の初代となる。

十一代  白木太七、福萬醤油の二代
(1835年~1868年、33歳、明治元年没、戒名は寒梅自香居士)。勤王志士、高杉晋作が設立した奇兵隊にはいり、姫島に監禁されていた野村望尼を救出した石蔵卯兵衛は、同じ年の親戚である。隣人の目明かし高橋平兵衛と協力し、醤油蔵に月照和尚と西郷隆盛を匿う。目明かし高橋平兵衛は黒田藩にて捕縛され、姫島に命じ4年まで監禁される。白木太七は石蔵卯兵衛と共に、33歳で明治元年に佐幕派により暗殺。黒田家に配慮して、正式な位牌は仏壇に無い。

松村半七氏により管理時代。白木家中断。
33歳の若さで白木太七が非業の死を遂げたため、薬院(現在の紺屋町上久醤油)楠屋から松村半七が白木家を再興するまで、松村家が預かる。松村家から白木半四郎の養子縁組みを行い白木家を再興させる。位牌あり。

十二代  白木半四郎、福萬醤油の三代
白木半四郎の肖像画
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白木家中興の祖。妻ひさのと再婚。

十三代  白木半五郎、福萬醤油の四代
妻ソノ。千代、正子、久子、嘉子の4人の娘をもうける。 弟は白木太四郎。薬局白十字を創業。
白木半五郎と白木正元の写真
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十四代  白木正元、福萬醤油の五代
半五郎の長女千代と甘木市(現在朝倉市)合谷家から養子縁組。合谷家は戦国時代の秋月藩主秋月種実の子孫。兄は合谷種実氏。北九州の戸畑市長を五市合併まで、2期つとめる。東洋一の若戸大橋を建設。兄は博多どんたくの生みの親、新天町の博多人形はくせんの会長下澤轍氏。
by fukumansyouyu | 2009-11-23 12:57

by fukumansyouyu