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白木正四郎の福萬醤油

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醤油の文化を語るブログ

カテゴリ:未分類( 17 )

福萬醤油の誕生は黒田騒動事件が無ければこの世に存在していない。歴史には「もし」は無いと言われるが、黒田騒動を起こした栗山大膳公は、白木家の先祖白木忠右衛門は大膳の父善助と義兄弟。その子白木甚衛門は、大膳公とは義兄弟。同時に家臣であった関係からこの黒田騒動は、白木家が武家から商家になり、酒醸造から醤油醸造を始める大きなきっかけを作った歴史的事件である。事実、明治の初めに白木家中興の祖と伝えられる白木半四郎の栗山大膳200年供養の木札が蔵から出てきた。200年たっても子孫が大膳の追悼供養を行った史実に触れて、黒田騒動に特別な思いを抱く先祖の心情を推測し、栗山大膳名誉を回復するために以下の考察を行った。
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by fukumansyouyu | 2009-11-26 09:54
黒田騒動について


栗山大膳を主君を訴えた極悪人のように最近の歴史解説書では次第に多くなってきている。これは、明治時代の田山花袋の自然派文学の流れから人間の崇高な精神を疑う社会主義的な観点から歴史の英雄を蔑む影響と思われる。栗山大膳を先祖の一人として、供養している立場から、もう一度歴史を見直したいと心から願っている。今回、歴史を紐解く過程で次の事実に気がついた。黒田家の筆頭家老として、黒田如水、長政、忠之三代に仕えた白木家の先祖の一人である栗山備後守利保が死去した寛永9年(1631年)の翌年寛永10年に黒田騒動が発生した事実である。
家老として忠之を長政公から後見人として託された大膳は父利保の死去に伴い、忠之公に直言する重鎮がいなくなったのだ。そのために、忠之公が暴走をした。父から黒田家を守れと遺言された大膳は命をかけて江戸幕府に訴えたのではないだろうか?大膳は徳川家康公の孫娘(養女)の夫である忠之公を江戸幕府は改易しない。また家康から「忠節を感謝し、徳川家は黒田家の子孫を粗略には扱わない」との感状ことを確信した上で、江戸幕府に直訴したのではないか?

以下「歴史の勉強 黒田騒動」 というサイトは、栗山大膳の気持ちのみならず忠之公や倉八十太夫の心情を暖かい視線で血の通う人間として理解して描かれている数少ない解説である。皆様にぜひ、読んでいただきたいと思い以下に掲載する。この作者は人間観察の達人である。この騒動に誰一人の悪人も登場しないという結論は深い人間について作者の洞察と優れた哲学に裏付けされている。


黒田騒動について歴史解説。http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-kuroda.html
歴史の勉強 黒田騒動
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by fukumansyouyu | 2009-11-23 13:58
三つ盛木瓜(日下部氏流)白木家の家紋は朝倉の分家である為に中心の花弁がない家紋である。

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 朝倉氏は開化天皇または孝徳天皇の後裔といわれている。天智天皇により19歳の若さで謀反の疑いをかけられて、謀殺された有馬皇子は孝徳天皇の嫡子。朝倉氏は有馬皇子の妹の子孫だと言われている。朝倉氏ははじめ日下部を姓としたが、平安時代末期に但馬国朝倉に居住し、はじめて朝倉氏を称したという。 
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下って南北朝時代に広景が、足利方の斯波高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍している。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていった。 その後孝景が現われ、斯波氏の内紛に乗じて、越前守護となり、一乗谷に城を構えて戦国大名化に成功した。孝景は応仁の乱では西軍に加わり、文明十三年、斯波氏に代わって越前守護となった。一乗谷城にはそれから氏景・貞景・孝景・義景の五代が住み、越前に戦国大名領国制を展開することになる。初代の孝景が有名な「朝倉敏景十七ヶ条」の制定者で、朝倉氏中興の祖というか、戦国朝倉氏の基礎を築いた人物である。 初代孝景の子教景は宗滴と号し、五代義景にいたるまで後見として活躍し、加賀・能登・越中の一向一揆と戦うなど、朝倉五代を身をもって生き抜いた人物である。七十九歳という高齢でなおかつ合戦に参加したという話は有名で、朝倉氏もこの宗滴が弘治元年に死んでからは、歯止めを失った義景の、奢りをきわめた生活が始まり、衰えを見せるようになる。宗滴教景が話したことを家臣が書き留めた「朝倉宗滴話記」は、家訓としても名高い。 義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名だ。 元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めた。ところが信長の妹を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻したのである。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることになった。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の合戦が行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしたが敗北。 天正元年、信長は古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害した。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまった。
 
朝倉義景の弟であった先祖朝倉刑部太夫景遠は越前国、細呂木藩主3万5千石を治めていた。織田信長との姉川の戦いに敗れ、福井県白木谷に逃れた。日本海に面する山に囲まれた秘境の地、白木谷に朝倉刑部太夫景遠は、隠れ住む。白木谷の白木という名前は新羅の国からのこの地に隠れ住む朝鮮半島からの逃亡者が隠れ住む村であった。白木は新羅の呼び方が変化したと言われている。刑部太夫景遠の子 白木忠右衛門景定は、姓を朝倉から白木と改名。執拗に迫る織田信長の追っ手を避けるために、白木谷を出て、備前の国(岡山県)の福岡の黒田官兵衛に仕える。家老栗山備後守利安の妻は忠右衛門景定の妹。忠右衛門景定は栗山備後守利保の義兄となる。

黒田官兵衛孝高像。
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。栗山備後守利安の妻は忠右衛門景定の妹。その子白木甚衛門は黒田二十四騎の筆頭家老栗山備後守利安とは義理の息子(次女を嫁としてもらう)、で家来300石で仕える。栗山善助(備後守利安)は、主家黒田家とは主従の枠を超えた親密な関係があった。 栗山善助は、黒田官兵衛孝高(後に如水と号する)に仕え、母里太兵衛や後藤又兵衛らと共に黒田24騎・黒田八虎と言われた。戦場であげた首級57と、家臣でもずば抜けた戦功を挙げている。また善介は、主君官兵衛を半死半生の世界から救いだした功績もあった。秀吉の与力として参謀を勤めていた官兵衛は、信長に反旗を翻した同じ切支丹武将の荒木村重のいる有岡城に説得に行くのである。しかし、逆に土牢に1年もの間幽閉されてしまう。 長い間、陽も差し込まない地下牢に入れられた官兵衛は、すっかり身体も干からび歩行困難の姿になっていた。この官兵衛を有岡城の落城の中で救い出したのが、栗山善助なのである。 一方、官兵衛が消息不明になり、信長は官兵衛も裏切ったと激怒した。そして秀吉の長浜城にいる官兵衛の嫡男・松寿丸を斬る様に、竹中半兵衛に命じた。しかし官兵衛が裏切ったという確証を得ない半兵衛は、自領に長政をかくまって、信長には虚偽の報告をした。半兵衛はこの翌年、命令違反を問われることなく、病没している。長政の戦国期を切り抜けた濃厚な価値観の中では、息子忠之では家の存続にいかにも危なっかしい。長政も自分との後継者として忠之の器量を危ぶみ、幾度となく廃嫡を考えた。商人にさせようともした。 この長政の廃嫡の動きに対し、忠之の守り役であった栗山大膳が防波堤となって、ことごとく守ったのである。先祖の白木甚衛門は義理の父であり、主君である栗山備後守利安が没した当日、志波の円清寺にて割腹にて殉死。時は寛永9年(1631年)。
 長政も最後には、大膳ら重臣が藩の運営を間違いなく補佐してくれるだろうと後事を託したのであったが、一抹の不安からか、長興に秋月5万石を、高政には東蓮寺(直方)4万石を与えて分家独立させ、本家に何かあっても黒田家の家名が残るようにもしている。
 長政から重用された栗山大膳は、武芸全般に秀でいたが、書道に詩歌に長じ、また幕府の学頭・林羅山の薫陶も受けた当時一流の教養人でもあった。黒田藩52万石の筆頭家老であり名士として、幕閣や諸藩の有力者との交流も多かったであろう。
 長政が薨去した後も忠之の奇行が納まらず、家臣をむやみやたら打ち叩いたり、幕府に禁じられた大船を建造したりと、大膳の諫言は繰り返された。大船建造の件は、大膳が幕府に申し開きをして解決させている。その後、家老栗山大膳の忠之の奇行を諌めるために起こした黒田騒動、寛永10年(1632年)にて、大膳の甥っ子であり、家来でもあった甚右衛門の息子白木孫衛門は武士から牢人となり、粕屋郡にて病死した。一歳で孤児となったその子白木太兵衛は宗像郡の百姓の夫婦に養子にもらわれて、成長。福岡の萬町にて、親戚の薬院の楠屋(松村家)の力を借りて、酒屋を創業。楠屋白木玄流と名乗る。事業に成功し財をなした玄流は宗像の義理の養父養母に感謝し、臨終の遺言で太宰府戒壇院の梵鐘を寄付する。その子白木太次兵衛(寿山)は、柏屋を創業。代々黒田家御用達の酒蔵元として酒の醸造業を150年間営む。文政四年(1821年)に福萬醤油初代白木太次郎が味噌、醤油の製造を萬町にて開業。以後200年間営む。



戦国時代から昭和時代の詳細な系図は以下の通り。

一代  朝倉刑部太夫景遠
越前国、細呂木藩主3万5千石。朝倉金吾義景の弟。兄弟で浅井氏
と共に、織田信長と姉川で戦う。世に言う姉川の戦いで敗戦。兄は討死。福井県の日本海に面する山に囲まれた秘境の地、白木谷に弟は落ち延びて、隠れ住む。白木谷の白木という名前は新羅の国からのこの地に隠れ住む朝鮮半島からの逃亡者が隠れ住む村であった。白木は新羅の呼び方が変化したと言われている。位牌無し。

二代  白木忠右衛門景定
織田信長の追っ手を避けるために、姓を朝倉から白木と改名。白木谷を出て、備前の国(岡山県)の福岡の黒田官兵衛に仕える。栗山備後守利安の妻は忠右衛門景定の妹。忠右衛門景定は栗山備後守利保の義兄。位牌無し。

三代  白木甚右衛門
(?~1631年、寛永9年殉死)
叔父である黒田家老、栗山備後守利安(一万五千石、1550~1631、82歳、寛永9年死去)の次女を妻に娶る。甚右衛門は栗山備後守利安の義理の息子。つまり、黒田騒動の首謀者である家老栗山大膳と義兄弟。家臣として300石をいただく。九州での黒田官兵衛の九州攻略戦で、各藩との戦いに栗山備後守と共に参戦。備後守の死去にともない即日殉死。備後守我主君如水の為に建立した杷木町志波の円清寺に備後の墓を守るように墓がある。位牌は円清寺に有り。円清寺は筑前藩主黒田長政の父孝高公が、慶長9年なくなったとき、志波以東の宰領をまかされていた黒田藩家老栗山備後利安が、主君孝高公菩提のために建立したもので、山号寺号もその法名「龍光院如水円清居士」に因んだものである。したがって黒田孝高公、長政公の位牌や梵鐘、画像等黒田家ゆかりの品々が保存されている。
志波円清寺全景
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四代  白木孫右衛門
(?~1646年、正保3年没)
叔父である栗山大膳に仕える。黒田騒動にて、大膳が津軽藩に配流。武士の身分を剥奪され牢人となり、粕屋郡にて病死。位牌無し。

五代  白木太兵衛
(1645年~1700年、55歳、元禄13年没 戒名は本達玄流居士。)
1歳にて、孤児となり、母とも生き別れ、宗像の子宝に恵まれない慈愛溢れる百姓夫婦の家に養子としてもらわれ、大事に育てられる。白木家再興を養父から教えられ、成長して薬院の楠屋の松村から支援を受けて福岡萬町にて酒醸造業 楠屋を始める。楠屋太兵衛と名乗る。成功して、臨終の遺言にて、日本三大戒壇院のひとつである太宰府観世音寺戒壇院の梵鐘を寄進する。また、観世音寺の江戸の再建にも多額の寄進をおこなう。
梵鐘の櫓と梵鐘
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戒壇院の梵鐘の前には、白木玄流氏よりの寄進と記す立札がある。
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玄流の2人の娘は薬院の楠屋(松村家)に嫁ぐ。位牌あり。
戒壇院全景
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六代  初代白木太治兵衛
(1684年~1761年、77歳、宝歴10年没、戒名は實心寿山。写真は寿山の自画像。
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苦労して成功した父、玄流の功績を称え、尊敬し、白木家に関する歴史をまとめる作業を行う。
酒醸造業 柏屋の創設者。檀家である安国寺に父玄流の冥福を祈る為に山林5000坪を2度も寄進。三代に渡る黄金期を迎える。

七代  二代目白木太治兵衛
(1723年~1769年、46歳、明和5年没、戒名は桃厳寿仙)

八代  三代目太治兵衛
(1747年~1808年、61歳、文化5年没、戒名は實厳寿哲)
弟は、白木太左衛門は27歳にて没。戒名一関覚居士)位牌あり。

九代  白木太次郎
(1777年~1814年、38歳、文化11年没、戒名は實参良縁居士)
實参良縁居士の肖像画
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義父の太治兵衛に男子無く、松村家から白木家に養子として迎えられた。

十代  白木太治郎
(1795年~1862年、67歳、文久2年没、戒名は萬實一円居士)
一円居士の肖像画、福萬醤油の初代
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良縁居士の娘と松村治右衛門の3男が婿養子として縁組。
白木太治郎は、文政4年(1821年)福萬醤油を開業し、福萬醤油の初代となる。

十一代  白木太七、福萬醤油の二代
(1835年~1868年、33歳、明治元年没、戒名は寒梅自香居士)。勤王志士、高杉晋作が設立した奇兵隊にはいり、姫島に監禁されていた野村望尼を救出した石蔵卯兵衛は、同じ年の親戚である。隣人の目明かし高橋平兵衛と協力し、醤油蔵に月照和尚と西郷隆盛を匿う。目明かし高橋平兵衛は黒田藩にて捕縛され、姫島に命じ4年まで監禁される。白木太七は石蔵卯兵衛と共に、33歳で明治元年に佐幕派により暗殺。黒田家に配慮して、正式な位牌は仏壇に無い。

松村半七氏により管理時代。白木家中断。
33歳の若さで白木太七が非業の死を遂げたため、薬院(現在の紺屋町上久醤油)楠屋から松村半七が白木家を再興するまで、松村家が預かる。松村家から白木半四郎の養子縁組みを行い白木家を再興させる。位牌あり。

十二代  白木半四郎、福萬醤油の三代
白木半四郎の肖像画
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白木家中興の祖。妻ひさのと再婚。

十三代  白木半五郎、福萬醤油の四代
妻ソノ。千代、正子、久子、嘉子の4人の娘をもうける。 弟は白木太四郎。薬局白十字を創業。
白木半五郎と白木正元の写真
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十四代  白木正元、福萬醤油の五代
半五郎の長女千代と甘木市(現在朝倉市)合谷家から養子縁組。合谷家は戦国時代の秋月藩主秋月種実の子孫。兄は合谷種実氏。北九州の戸畑市長を五市合併まで、2期つとめる。東洋一の若戸大橋を建設。兄は博多どんたくの生みの親、新天町の博多人形はくせんの会長下澤轍氏。
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by fukumansyouyu | 2009-11-23 12:57
小西先生から新しい博多男醤油の穴あきパッケージとラベルのご提案がありました。箱の窓から山笠の中州流れの法被の後ろ姿が見えます。ラベルにも先生の切り絵をデザインするご提案です。素晴らしい箱が仕上がりました。
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by fukumansyouyu | 2009-11-12 08:04
昨日16:00から福萬醤油の取材がありました。KBCテレビの「アサです!」という情報番組です。レポーターにきき醤油をしていただきました。たくさんの醤油の種類と味の味比べで、醤油がたくさんの種類と味の多様な世界があるというを実感していただきました。九州の独特の文化である刺身で食べない残った魚を醤油に漬けて、保存食として加工する料理法を「魚漬け醤油」を使い味わっていただきました。
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by fukumansyouyu | 2009-11-12 07:57
九州の醤油醸造メーカーは品質では日本でも最高ランクの商品を提供する地域である。
醤油ソムリエの大浜大地氏が注目する九州各地の地域一番人気の醤油メーカーをご紹介する。
醤油の塩分濃度は北に行けば辛く、南に行けば甘くなる。醤油の味は、まさに風土の味である。人々の醤油に求める味は、その地方の気候や食材や人々の労働環境に影響される。とくに、世界的な千葉県の醤油メーカーであるキッコーマン醤油も九州では苦戦している。それは、九州各地の小さな醤油メーカーが地域に根ざした醤油の味を守ろうと頑張っているからだ。それを支える地元の人の郷土愛にも感動する。地方のこうしたメーカーは共同してもろみの仕込み工場をを組合組織で設立して、コスト競争に生き残りをかけて努力している。それぞれの醤油メーカーがコストのかかるもろみから生醤油製造を組合に委託して、自分の工場では、地域にあう、醤油をブレンドしたり、独自の味付けを工夫して、地域と共に生きる醤油文化を支えている。地方には、独自に昔からの製法で、自らもろみ製造から製品製造まで、一貫生産している醤油メーカーも存在する。どちらも、素晴らしい日本の醤油文化を維持し、守ろうとしている素晴らしい仲間である。そんな仲間たちを醤油ソムリエ大浜大地氏は応援したいと考えている。とくに福岡県は全国に約1500ある醤油醸造メーカーのうち、なんと、154の醤油醸造メーカーが存在する。九州全体でも298のメーカーであるのに、その半数が福岡県内に存続しているのは奇蹟である。世界一の醤油県といえる。それほど、福岡県人の基本であるお互い様の精神、宗像が生んだ出光佐三氏(明治生まれの日本的経営の実践者)が説く互譲互助の精神で、メーカーが共存出来るルールが暗黙のルールとして伝統として受け継がれているお陰であると思う。

宗像の神湊の中丸醤油の明治時代の写真。
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(参考)醤油製造組合設立の経緯

昭和39年、福島県内醤油製造業者の総意のもと、醤油製造工程中最も資本投下が大きく、高い技術を要する生揚(生醤油)までの集中生産を目的に本組合は誕生しました。この全国初の生揚生産協業化は後に「福島方式」と呼ばれ、他県に波及しました。その後このような生揚工場は各地域における醤油生産の近代化に貢献しました。本組合は、醤油の伝統的製法を守りながら、近代設備・技術を導入することで独特の" 味・香り"を造ることに専念してまいります。福岡県醤油工業共同組合は日本で二番目に設立、現在の理事長は高田一郎氏、事務局長中村昇氏、
福岡県醤油醸造共同組合は理事長中村菊人氏技術指導は専務理事、世界的な農学博士野田義治氏。

上久醤油(福岡県福岡市)
博多を代表する老舗。黒田52万石御用達の醤油メーカーである。江戸幕末の安政二年九月(1855年)創業以来五代にわたり、一貫して「誠実と信用」を守り続けている。明治・大正・昭和・平成と社会、経済が大きくゆれ動いた中で、幾多の難事を乗り越えて、醇良な製品造りを維持し、業績を伸長した。博多の高級料理店はほとんどがこのメーカーの醤油を使っている

紫埜(ムラサキノ)(福岡県飯塚市)

ナカマル醤油(福岡県宗像市)
ナカマル醤油の創業は江戸末期の嘉永三年。嘉永三年は、西暦で言うと1850年。ペリーが黒船に乗って日本に来る三年前のことです。当時神湊の造り酒屋であった「丸二屋」から分家して「中町」に開業したことから、「中町の丸二屋」すなわち「中丸」という屋号になりました。初代は永嶋与右衛門良運です。現在は六代目の永嶋多知が当主をつとめております。宗像神湊で醤油の醸造をはじめた理由としては、神湊が玄界灘に面した港町で、昔からおいしい魚介類が豊富であったことがあげられます。当然醤油の大消費地でありましたし、それと共に魚料理によく合う「あまくち」の醤油が開発されてきました。江戸時代末期から続いて平成にいたる現在、ナカマル醤油の歴史を伝えるべく「ナカマル醤油資料館」を本店の奥に設立しております。

マルヨシ醤油(福岡県宗像市)
ニビシ醤油(福岡県古賀市)
くばらコーポレーション(福岡県糟屋郡久山町)
久原醤油
町田醤油(北九州市若松区)
マルヱ醤油(福岡県みやま市)
まるは醤油(朝倉市)
大町醤油(北九州市若松区)
マルナガ醤油(大牟田市)
綾杉醤油(福岡市東区香椎)
マルト醤油(糟屋郡宇美町)
久留米キッコー醤油(久留米市)
大久醤油(糟屋郡粕屋町)
マルヨシ醤油(宗像市)
フクビシ(福岡市西区周舟寺)
青柳醤油(古賀市)
ヤマタカ醤油(福岡市早良区)

ミツル醤油醸造元(福岡県糸島郡二丈町)城 慶典氏が経営する若き醤油職人が製造する注目の醤油醸造元である。古き伝統的手法にこだわり初めから終わりまで自社工場で製造する夢にかける醤油職人である。大いに期待される。
彼の経歴は以下の通り。生年月日 1984年、高校生の時、伝統的製法による醤油造りの復活を志す。東京農大醸造科学科入学後、伝統的製法による醤油造りを続ける蔵を探し、春休みなどに短期間の研修を受け入れて頂く。卒業までに7つの蔵を回り各蔵主から教えを乞う。卒業後、広島県岡本醤油醸造所で一年間研修。大学時代から様々な醤油蔵を回ることで、醤油造りの「奥深さ」「面白さ」などますます醤油の虜なっていっく一方で、物が溢れる世の中で良い物を造っていても、それを販売していくことの大変さを感じる。食に関するビジネスの世界を幅広く学ぶため、東京に戻りJFCSジャパンフードコーディネータースクールに入学。この一年間で沢山の知識を得た。しかし、それ以上に素晴らしい方々との出会いがあり、これが一番の収穫となった。2009年6月より実家であるミツル醤油に従事する。

竹茂本店(大分県日田市)
天皇献上の栄誉を賜る創業百七十年の老舗「日田醤油」
この醤油を手がけたのは、天皇献上の栄誉を賜った高級味噌醤油醸造元日田醤油。その歴史は古く、文久二年、天領日田の城下町に中山永太郎が、麹屋として甘酒・味噌醤油の醸造を開始したところから始まります。その後百七十年の長きにわたり代々受け継いでいる「自然の素材を自然に扱う」というモットーに従い時代の波に流されることなく、昔ながらの製法により伝統を守り続けています。この職人の伝統の「技」と、仕込み樽に息づく麹。それこそがこの醤油の味わいを生むのです。
フンドーキン醤油(大分県臼杵市)
1861年に創業して以来、味ひとすじ・純正をモットーに味噌・醤油・ドレッシング・ソース・醸造酢・たれ・ポン酢等の生産、販売をしている企業です。和風・洋風・グルメと最近の食文化の傾向に合わせて、食品の種類も多種多様になってきましたが、フンドーキンとしては、日本古来からの調味食品である味噌・醤油の本質を堅持しながらも、時代にマッチした新製品も開発して国内はもとより国外における需要も開拓していきたいと考えております。 売り上げ九州第一位160億円を誇る。
富士甚醤油(大分県臼杵市)
宮島醤油(佐賀県唐津市)
チョーコー醤油(長崎県長崎市)
フンドーダイ(熊本県熊本市)
ホシサン(熊本県熊本市)
濱田醤油(熊本県熊本市)
ヤマエ醤油(宮崎県都城市)
藤安醸造(鹿児島県鹿児島市)
カネヨ(鹿児島県鹿児島市)
吉永醸造(鹿児島県鹿児島市)
キンコー醤油(鹿児島県鹿児島市)
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by fukumansyouyu | 2009-11-03 10:23
博多男醤油のデザインを快く引き受けた小西画伯。
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エコバック、博多男醤油を3本買うとプレゼント。
小西画伯
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。まさに男、博多の山笠の粋な男である。
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by fukumansyouyu | 2009-11-02 22:24
日本の醤油消費量が欧米で飛躍するというニュースを聞いた。日本人の醤油の消費が1985年から2008年では約半分に減少した状況は異常である。世界中が評価する醤油を日本人が捨てようとしている。戦後アメリカの対日戦略は4つの柱で実施された。
1)道徳教育をさせない。親孝行:「孝」と言う概念が親から社会、国家へ、それが天皇に繋がる。
2)日本人の誇りを持たせる歴史教育をさせない。国への誇りが天皇へ繋がる。
3)宗教教育をさせない。人間より優れた存在への意識が天皇に繋がる。
4)醤油文化を弱体化して、魚とお米中心の食文化を破壊する。アメリカの牛肉や小麦を消費するアジア最大のアメリカ農産物の市場を作る。醤油と米作は日本の漁村や農家をささえ、「和」の精神を育み、団結心をやしない、天皇に繋がる。

戦後、マスコミを使った様々な啓蒙活動が行われた。
「米を食べると頭が悪くなる」「米を食べると肥満になる」「醤油を飲むと肝臓に悪い」「醤油は塩分が多いので高血圧になる」
アメリカ文化にあこがれた若い世代の日本人がパンやスパゲッティ、肉を多く食べるようになり、醤油の消費はみるみるうちに減少していく。地域を支えた醤油醸造の古い商家がつぶされていく。
福萬醤油もそうした流れの中で、50年前に醤油醸造業を中断した。

このニュースはそういった意味で欧米での醤油増産のニュースは、興味深いニュースである。

九州醤油研究会の仲間たちは九州博多から日本人の醤油の消費拡大啓蒙運動に意欲を燃やしている。

キッコーマン「欧米でしょうゆ増産」 米国一般家庭への普及は半分程度 欧州では現地人に合うレシピを
キッコーマン 欧米でしょうゆ増産、中国企業の買収検討
2008/6/8

キッコーマンは6日、海外でのしょうゆの 生産能力を増強する方針を明らかにした。米国でのしょうゆ生産35周年記念行事のため訪米中の茂木友三郎会長が記者会見で表明した。9月9日付で米国に研究開発拠点を設立するほか、今年度中に欧米2拠点の生産能力を拡充する。

 茂木会長は米国のしょうゆ市場について「一般家庭への普及は半分程度。まだ浸透する余地があり、
今後も年平均5%で成長する」と分析。欧州では「原点に戻って現地の人に合うしょうゆを使った
レシピの開発に力を入れている」と説明した。

 同社は米ウィスコンシン州とオランダに生産拠点を持つが、米工場の年間生産能力を
10万9000キロリットルから11万1000キロリットルに増強、オランダ工場も
1万1000キロリットルから1万3500キロリットルにアップする。

 同社は今年4月に発表した長期経営計画で、2020年度までに全世界のしょうゆ販売量を
現在の年間約45万キロリットルから同100万キロリットルへと約2倍に引き上げる方針を示している。
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by fukumansyouyu | 2009-11-01 17:12
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醤油ソムリエ、醤油案内人 大浜大地氏プロデユースの作品。
世界的な美人画家鶴田一郎画伯とのコラボレーション。
博多美人醤油として150ML入りの醤油おみやげ商品。3本セットで発売価格は未定。「ぶどうポン酢」「かぼすポン酢」「ゆずポン酢」。または、たまごかけ醤油」。箱は大浜大地氏により現在デザイン中。掲載の赤い箱写真は鶴田一郎のコーヒーカップセットの箱イメージです。
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by fukumansyouyu | 2009-10-31 20:27
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博多切り絵のアーティスト 小西画伯とのコラボレーションの博多男醤油の発売を企画している醤油ソムリエ 大浜大地氏の作品。
新しい博多のおみやげ商品として博多醤油を小西画伯と共同で」取り組んでいる醤油ソムリエ 大浜大地氏。販売方法は、価格500円「たまご掛け醤油」、「ぶどうポン酢」など3本購入すると、小西画伯の福萬醤油ロゴ入りのエコバック(価格500円)をプレゼント。空港や道の駅、博多駅、有名デパートにて販売する計画です。
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by fukumansyouyu | 2009-10-31 20:17